赤穂城
赤穂の歴史
前史
『赤穂』の地名は天平年間(729‐749)から確認できる。*1
赤穂郡*2の中で塩の生産が行われていてその地域は「東大寺領石塩生庄」と呼ばれていました。仁平年間(1151‐1154)にはその地域が「赤穂庄」と呼ばれるようになり汲潮浜式*3の塩田が広がっていた。その後、石清水八幡宮領や摂関家領を経るが、集落というよりも塩生産のための荘園という側面が強かった。集落としての加里屋は北の加庄の人々が塩浜を営むために降ってきたことから始まったと言われる。
そして、享徳年間(1452‐1455)には赤松満祐の一族岡豊前守光景*4が大鷹ノ城(加里屋古城)を赤穂に移したことで城下町が形成され、水運と軍事の拠点として発展していく。
天正10年(1582)には羽柴秀吉が姫路街道の元となる新土手を築かせた。秀吉が生駒親正を配したことで赤穂藩が成立。親正が讃岐に移ったのち、宇喜多秀家の領地となり家臣津浪法印が城ヶ洲に役所を構えたという。場所は三の丸の近藤源八屋敷跡とされ、加里屋から現在の城内へと行政機能が移動した。また城下町の基礎ができたのもこの頃だが、江戸期の町割になっていくのは加里屋大火以後とである。
池田氏時代の赤穂藩
関ケ原の戦い後、宇喜田秀家が改易されたことで池田輝政が播磨一国を支配することとなった。輝政の末弟長政が2万2千石で小早川の備前岡山藩に対峙するように配された。小早川秀秋の死後無嗣断絶となった備前一国を輝政の子忠継が治めるようになると要害としての価値は薄れ代官のみが置かれた。
輝政の死後は忠継の領地となり、忠継の死後弟の政綱に分与され赤穂藩が3万5千石で再び成立する。順調に領地経営を行っていたが、後を継いだ弟輝興が妻黒田長政の女や侍女数人を殺めてしまい改易となってしまい、池田赤穂藩はここで潰えることになる。
池田氏時代にも播磨では塩田開発が積極的に行われ姫路や高砂が一大生産地となっていた。赤穂は鉄穴流しや洪水頻発により干潟が急速に拡大しており塩田開発に最適な土地としての条件が成り立っていた。
また、慶長8年(1603)に赤穂代官となった垂水勝重が掻上城や切山隧道を築き、のちの行政拠点や赤穂水道の基礎を整備した。さらに元和年間(1615‐1624)に起きた「加里屋大火」も伴い加里屋城下町一帯の町割の整備が進んだ。
浅野氏時代の赤穂藩
正保2年(1645)6月に浅野長直が5万3500石で入封する。慶安元年(1648)から赤穂城の築城が始まったとされるが、幕府の許可した年であり、実際には正保3年(1646)には掘削など基礎工事が進められていた。埋め立て工事も行い現在の形の赤穂城となり寛文元年(1661)には完成した。
しかし、赤穂城が石高にそぐわず大規模であったことで藩の財政は悪化し、3代目藩主の浅野内匠頭長矩の殿中刃傷事件により改易となった。
赤穂城の見どころ
本丸
池田時代の掻上城を利用する形で本丸御殿の四方を埋立。ほとんどが本丸御殿で最低限の広さ。中に池泉を備えた庭園や天守台があり藩主の居住スペースの面が強い。瀬戸内海沿いのため熊見川から曳いた赤穂旧上水道により各戸へ配すことで水の手の確保もしていた。3基ある横矢桝形や東北隅櫓台も見どころ。
二の丸
家老の大石頼母助屋敷と二の丸庭園が北部に広がり、南部は遊水地や米蔵、馬場などを備えている。東西の仕切門により南北に分かれる構造。
水手門の方には石垣を大きく窪ませる「水撚」がある。横矢掛の石垣や5基の櫓台も見どころ。
三の丸
城ヶ洲と呼ばれ宇喜多家臣津浪法印の役所を構えた土地である。城南が遠浅の干潟、東に熊見川と天然の要害があったため、北から西部を守るために築かれた。重臣の侍屋敷や厩などがあった。
大手門の太鼓橋が攻め口と想定されたため、大手枡形や櫓門により強固な造りになっていた。搦手の塩屋門も同様に桝形や武者だまりによる守備が想定される。有名な赤穂大石神社も三の丸内にある。
甲州軍学と縄張
小幡景憲により創始された軍学で赤穂城の縄張を行った近藤正純はその高弟であった。攻め手と受け手を熟慮して防御を編み出すという特性上、赤穂城は横矢掛や横矢桝形、櫓台などを組み合わせた死角の無い複雑な造りになっている。また、北条氏長に師事した山鹿素行が築城中の二の丸門の縄張を改めるなど二人の影響を受けた城と言える。